新山祐介の日記 2004/5/8

Last Modified: Sat May 8 01:02:28 EDT 2004 (05/08, 14:02 JST)
なぜオレはここにものを書くのか…?
それは未来に大いなる謎を残すためだ!!
…というのは 30% ぐらいの嘘としても、ときどき (というかかなり)、過去に自分が書いたものがさっぱり理解できないことがある。それは、ちゃんとした日本語で書いてあっても、理解できない。事実がはっきり書いてあっても理解できない。情報はあるのだが、そのときその時点で自分が何を考えていなのか、今となってはさっぱり共感できないのだ。
おそらく世間のひとびとがいうところの「ブログロ」と一番ちがうところはここだと思う。かれらが何のために自分のご意見を世間様に「お見せして」いるのかは知らないが、とりあえず新山はこのページを「お見せする」ためには書いていない。ただ「見えている」だけだ。 (中略) http はしょせんは物置き用プロトコルなのだ。その感覚はいまも残っているし、 プロバイダの個人ページにはいまでもそういう「とりあえず置いときました」的な 雰囲気のところが沢山ある。にもかかわらず、昨今のブログロじゃ、 なんでこんなに「個人が出版!」的なイメージが強いんだろう? そんなに個人に主張されちゃうるさくて仕方ないよ。 こういうのは web の初期のころにも言われていたと思うけど、 たしかあのころは「まともな情報がなければ個人が出版するもんなんかない」といった 結論で終わっていた。しかし今はなんかもうド素人でもいいから、 とにかく自分の趣味や趣向や生活や意見を堂々と主張しなさい! といった雰囲気になっている。なんじゃそりゃ? きっとこれはネットワーク帯域が太くなったので、 もっとネットワークを無駄遣いしなさい、ということかも。しかしいずれにしても理解できない。 これからは「素人」がやるのが流行りなんだよ、ということだろうが、数の問題ということを 考えなきゃあいけないと思う。
新山は基本的に「情報が多い」ということをいいとは思っていないので、 世界を無駄な情報で溢れ返らせるべし、といった主張には本質的にウソ臭いものを感じる。 無駄なことを沢山知っていても、人生はちっとも豊かにはならない (しばしばこれに相反する主張をみかけるが、 それはすでに「入信してしまった人間」が べつの被害者をひきずり込もうとしているだけにすぎない)。 こういう主張が普及している原因のひとつは、おそらく 「他人にふりまわされる感覚」が大好きな人々のせいかもしれない。 そういう欲求は本質的に人間に生まれつきのものであるのか、 それともなにかべつの環境によるものかはわからない。