他人の食生活に対する批判は、ときに致命的な人間関係の破綻を招来する

from 内田樹の研究室の「たべもののうらみはこわい」2004年05月12日 〔改行が多いので適当につなげました。長文引用悪しからず〕
【著作】『子どもは判ってくれない』『ためらいの倫理学』『期間限定の思想』など

NTT出版のM島くんがやってくる。『街場の現代思想』の校正と、次の『アメリカ本』の打ち合わせである。
(中略)スローフードという運動がイタリアのピエモンテに発祥したということを聞いた瞬間に、「ピエモンテ?うーむ、それはちょっとやばいかも」という反応をしたせいである。ご存じの通り、イタリアのスローフード運動は、マクドナルドのローマ出店に対する批判の運動として、イタリアの伝統的食文化を守れ、というスローガンのもとに始まった。
(中略)北部同盟の基本的な思想はひとことでいえば「地域主義」である。閉じられたあるエリアにおける均質的な地縁血縁的結合を優先し、「コモンウェルス」の中に、自分たちとは異質の文化や地域性をふくむ「弱い敵」たちを抱え込むことに「ノー」を告げる運動である。その北部同盟運動の拠点のひとつがピエモンテ
そこで同時期に「マクドナルドのハンバーガーのような汚れたアメリカ物質主義をイタリアの地に入れるな」という運動が起きたことは、政治史的には平仄があっている。この運動の拠点が1920年代のムッソリーニファシズム運動のそれと重なっていることもいささか気になる。
(中略)伝統的な食文化はたいせつにしたい。私だって、そう思う。でもそれが別の食文化を排斥するところまで過激化すると、「ちょっと待ってね」と言わざるを得ない。
「おまえが食っているものはジャンクだ」という言明は危険な言明だ。(中略)「おまえが食べているものはゴミだ」という言明は、そのまま「おまえはゴミだ」という言明を帰結する。だから私たちは自分が食べているものについて「げ、よくそんなものが食えるな」というようなクリティックを頂くと、けっこう傷つくのである。
これは別に思弁的な話ではない。
私は20代の一時期、けっこうストリクトな「玄米正食」をしていた。玄米を食べ、有機野菜を食べ、肉を食べず、あらゆる添加物を忌避した食生活を半年ほど送っていたことがある。おかげでたいへん身体はクリーンになった。ついでに精神もクリーンになった。
そうすると、まわりで肉を食べている人間や、砂糖入りの食物を食べている人間や、添加物が入っているものを食べている人間を見ると「ゴミを食べている」ように見えてきた。「ゴミ食うのやめろよ」と私は善意から忠告する人間となった。言われた人々は一様に不快な顔をした。
まあ、当然ですね。
でも、そうこうするうちに、友人たちとでかけても、私は彼らが食べるものを口にできず、彼らが飲むものを見ると反吐が出そうになった。その結果、友人たちの誰ともいっしょに会食できない人間となった。居酒屋に行っても食べるものがなく、レストランに行っても何も美味しくない。
そこで私はやや反省した。わが身ひとりがクリーンになる代償に友人たちを失ってよいものであろうか。かなり真剣に考えた。そして一大勇猛心を発揮して、わが身の健康を棄てて、ジャンクな連中との友情を選ぶことにしたのである。以後私は誰がどんな危険な食物を食べていようと、にこにこ笑って「あ、そういうのが好きなんだ、ふーん。おいしい?」と言えるアバウトな人間になった。
この選択が正しかったかどうかは分らない(なんだか間違っているような気もする)。でも、他人の食生活に対する批判が、ときに致命的な人間関係の破綻を招来することだけは分った。それは他人の性生活に対する批判が、しばしば致命的な人間関係の破綻を招来することに似ている。
何を食おうと、君の好きにしなさい。蓼喰う虫も好きずきっていうし。
(中略)マクドナルドのハンバーガーは間違いなくアメリカン・グローバリズムの食文化的な戦略にコミットしている(だから、アラブ・イスラム世界ではマクドナルドがテロの対象になったりする)、一方、マクドナルド化を批判する伝統的食文化愛好は地域主義、排外主義の戦略にそれと知らぬうちにコミットしている。
別にどちらがいいとか悪いとかいうことを申し上げているのではない。ただ、自分が何かを「美味しい」と感じることにとどまらず、「美味しくないもの」とみなされるものについて「それを喰うな」と要求することは、すでにしてある種の政治的な態度表明になるということに「気づかない」ということは、ちょっと危険だよね、と申し上げているだけである。