パーソンズとフーコー

from id:contractio:20040710『心脳問題』談義スレ:本日のその3(付録)

最初のエントリで、「<パーソンズ>&<フーコー(→ドゥルーズ)>」という話をしたのは、学史に頼れば(=パーソンズフーコーを比較すれば)、第4章で生じている「概念的な捻れ」を、ある程度簡単に描写できるだろうと思ったからでした。

簡単に書いておけば次のとおり:
社会を、「(第4章でいう)規律型」[=内面管理型]をベースに記述する、という意味で、パーソンズフーコーは酷似していると思います。つまり、「規範・ノルム」を中心に据えて、それが「拘束」したり「共有」されたり「ポジティヴに」働いたり(以下略)する姿を描く、という点で。
ここで、フーコーのほうは、上記の事態について、非常に大ざっぱな仕方で「権力」という言葉を用いて語り、また同様に「政治」という言葉も用いたようですが、パーソンズはといえば、これを主要には「社会化」とか「内面化」とか「共有」とか(以下略)といった言葉を用いて語り、上記の事態 すべて に対して「政治」とか「権力」とかいう言葉を用いはしなかったようです。(これは、これだけとっていえば「言葉の使い方の違い」です。)

ふーむ。言葉は違っても、"構図" は同じであると。