金原ひとみ『アッシュベイビー』(集英社)

from 文学季評(上) 松浦寿輝(まつうらひさき)

末尾に屹立する1行
... その傍らに、金原ひとみ『アッシュベイビー』(集英社)を据えてみるとどうだろう。激しい情動の渦巻く青春期のリビドーの表現というあたりに、共通点がないわけではない。だが、ここには『遮光』のような正確きわまる想像力もなく、考え抜かれた端正な文体もなく、「私」が「私」であること自体の不気味さをめぐる省察もない。その日暮らしのキャバクラ嬢である主人公の「私」がここで自分を取り巻く世界に向かって投げかけている激甚な敵意は、若いうちだけちやほやされる中の上程度に可愛い女の子の、増長ぶりといい気なナルシシズムの変奏にすぎないといった気配もないではない。

サルトルカミュも、むろんドストエフスキーも何もかも飛び越して、いきなり村上龍を読んだらしい金原ひとみの大雑把な文章には、しかし奇妙に強い力が漲(みなぎ)っている。もどかしそうに卑語を連発する『アッシュベイビー』の「私」の悪意の発露の仕方の稚拙さは、『遮光』の「私」のねじけた倒錯ぶりにはなかったある爽(さわ)やかな直接性で、わたしたちをうたずにいない。躯(からだ)1つで体当たりといった風情の、このいじらしくも熱烈な書きぶりが読者に与える感動は、やはり「文学的」と呼ぶほかないものなのだ。あえて引用しないでおくが、この作品の末尾に屹立する1行は、小説の締め括りとして、文学史に残るに値するすばらしい1行だと思う。