『テスト氏』と『ムッシュー・テスト』

小林秀雄訳の『テスト氏』(筑摩書房ヴァレリー全集2』)と清水徹訳の『ムッシュー・テスト』(岩波文庫)を読み比べようとしたが、小林秀雄の訳が下手くそなので断念した。1カ所だけ挙げておく。
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小林秀雄訳(同9ページ)

何故にテスト氏は存在し得ないのか ── この疑問こそ彼の魂である。この疑問が諸君をテスト氏にしてしまうのだ。何故かというと、彼こそ可能性の魔自身に他ならぬからである。彼に可能なもの一切に関する顧慮が、彼を支配している。彼は自省する、動作する、だが、動かされるがままになるのは嫌なのだ。彼は、行為化された意識の二つの価値、二つのカテゴリー、つまり可能事と不可能事以外を認めない。哲学はほとんど信用されず、言語はいつも痛めつけられているこの不思議な脳髄のなかには、思想などというものはその場凌ぎのものだという感じを伴わない思想は棲んでいない。決定的な計算の期待と遂行があるだけだ。

清水徹訳(同12〜13ページ)

なにゆえにムッシュー・テストは不可能なのか?── この問いこそは彼の魂だ。この問いがあなたをムッシュー・テストに変えてしまう。というのも、彼こそは可能性の魔そのものに他ならないからである。自分には何ができるか、その総体への関心が彼を支配している。彼はみずからを観察する、彼は操る、操られることをのぞまない。彼は、意識を意識自体の行為へと還元したときのふたつの価値、ふたつのカテゴリーしか知らぬ、── 可能事と不可能事のふたつだ。哲学はほとんど信用されず、言語はつねに告発されているこの奇怪な脳髄のなかでは、束の間のものだという感情をともなわぬ思考はほとんど存在せず、そこに存続するものといっては、期待と限定されたいくつかの操作の実行のほかはほとんどない。

清水訳のほうもわかりにくい気がする……。