講談社「本」2004年10月号

文章というのはどれも等価なものだと思っている。分野は問わない。どのような分野の文章でもどこかこころに引っ掛かるものがあるものだ。もちろん空疎なものも多い。それはまあ仕方ないことだ。それはともかく、講談社「本」2004年10月号の冒頭の3つの文章を読んだ。ひとつは、大澤真幸の新連載「〈とき〉の思考」。第1回目のテーマは「「形式」と化した規範」。残り2つは、村上春樹(「あれから25年」)と角田光代(「彼らの結婚の内訳」)のエッセイだ。
村上春樹は、「周りの事情や思惑とは関係なく、自分のやり方でどんどん勝手にものごとを運んでいってしまう人間」(7ページ)だ。“とらわれない人”ってことだろう。昔ながらの村上文体でなつかしい気分になる。
一方、角田光代は、

バブル経済の時期にフリーターが増加したのは、単純に就職せずとも暮らしていけたからではなくて、バブルというものがはたして何かを作り上げているのか、という疑問が比例的に増加したからではないかと、私はなんとなく思っている。立ち止まることと傲慢であることが許される学生の幾人かは、思ったはずである。好景気が作ったものはことごとく醜悪な張り子で、中身なんかからっぽじゃん、と。

と書き、そして、

生み出す、作る、ということに対する圧倒的な疑惧が、私にはある。

とも。何かにとらわれることに対する疑念がぬぐいされないのだなと思う。
大澤真幸はこう書く。

規範が純粋な形式にまで還元されたときには、それとは、まったく逆の外観を取るということ。つまり規範の形式性は、逆に、特殊で偶有的な内容を有する行為(些細でくだらない行為、殺人)への極度の執着によってこそ確保されるのである。このことを考慮に入れることで、ジェイムソン*1が指摘した、ポスト・モダニティのアンチノミーの問題*2に回帰することができる。

何にとらわれているのかはわからないが…。次号を待つことにする。

*1:邦訳:フレドリック・ジェイムソン『時間の種子 ─ ポストモダンと冷戦以後のユートピア青土社 ISBN:4791756711高度資本主義の理想郷と暗黒郷社会主義」が崩壊し、現代思想の最先端としての「ポストモダン」さえ神通力を失ったいま、未来に待ち受けているのは理想郷(ユートピア)か廃墟(ディストピア)か。資本主義批判とポストモダン批評の第一人者が、哲学、文学、建築、メディア、大衆文化の現在を縦横に分析し、グローバル化する資本主義の未来像を提示する。

*2:構成主義本質主義(=相対主義と絶対主義)の対立的共存 のこと