『正義 現代社会の公共哲学を求めて』

平井克輔 編、若松良樹・服部高宏・那須耕介・植木一幹・玉木秀敏、高井裕之・中山竜一 著、嵯峨野書院、2004/11/30 A5判 本体3000円  ISBN:4782304080

【目次】
現代社会の公共哲学を求めて
第1部 自由社会の正義論
  功利主義と立法の科学;福祉国家の正義論;
  自由と市場の正義;正義と情報
第2部 リベラリズム共同体主義
  共同体主義の挑戦:個人と共同体;リベラリズムの再構築
第3部 多様化する正義
  男の正義/女の正義;多文化主義と差異をめぐる政治;対話の正義:
  対話的正義論とデモクラシーの可能性;ポスト構造主義と正義論

若松良樹さんに注目。ほかの人はどうかなぁ。

【関連する日記】
稲葉振一郎id:shinichiroinaba)さんの「インタラクティヴ読書ノート・別館」
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/books.htm
2004年11月23日より

 ぼくが現在日本でもっとも信頼している左翼知識人というのは、実は立岩さんなのだが(…)それはなぜかというと、まずはもちろんこのような研究者、書き手としての誠実さによる。そして第二に、そこから浮かび上がってくるそこはかとない──内田樹の言い方を借りれば──「とほほ」感である。自信がない、というのではない。何ごとか正しいこと、正義を語ろうという人は、つまるところ「権威」を打ち立てなければならないのだから、自信がなければ困る。しかし同時に何ほどかの「とほほ」感がないのも、やっぱりこまりものだ。
 「誰にでも間違いはあり、無論自分も例外ではない。それを認めることによって責任逃れをするつもりはないが、やはりひょっとしたら俺は間違っているということもありうる……」立岩さんはそういう気分を確実に読者に届ける力があるように思う。それは問題の複雑さ、手に負えなさをきちんと読み手に伝えようとする姿勢にあるのではないか。

 リフレ論争のおかげで「ケインズ主義」についての考え方が根本的に改まったがゆえに可能になったことなのだが、『経済学という教養』でやろうとしたのは、権利論的なスタンスをとっていた『存在証明』の時よりもやや「功利主義」寄りの方向にシフトすることによって、古典的リベラリズムの核に対して、別な角度からアプローチしなおそう、ということである。それは"Teking Paretian Liberal seriously"とでも言うべきスタンスとなった。そして「平等・対・不平等」という軸よりもより根本的な対立軸として「弱肉強食・対・共存共栄(含むパレート効率的競争)」を重視すべきだ、という提案がなされたわけである。(付言すると橋本努の「成長論的自由主義」の問題提起もほぼ同じことを言っていることになるはずである。と言うより、おそらく橋本くんの方が早い。)
 そう考えると『経済学という教養』は、『自由の平等』の出鼻をくじいた仕事である、とうぬぼれていいのかもしれない。もちろんそんなことはぼくは意識してはいなかったが。しかし立岩さんのことを全然意識していなかったわけではない。ぼくが考えていたのは、立岩さんの予告している『停滞する資本主義のために』の出鼻をくじく、と言うよりもその本の出版を不可能としてしまうことであった。もちろん悪意でそうするわけではない。立岩さんに前向きな形でしかし根本的に考え直してもらうこと、プロジェクトをあきらめるのではなく、重大な針路変更をしてもらうことこそが本意である。ぼくの介入が成功したならば、おそらく『停滞する資本主義のために』という題名の本は出ない──とはいえ本は出てもらわなければ困る。ただしその本のタイトルは、もしぼくの目論見がうまくいっていれば、まったく別のものになっているはずだ。
 ……そのためにもちくま新書のほうを頑張らないと。

あ、ちくま新書だったのか。よかった。ひどいデザインの講談社現代新書じゃなくて (^^; しかし、目利きの稲葉さんが「もっとも信頼している左翼知識人」である立岩さんの著作はいまだ読めず。