まなざしの収集

リスのようにまなざしを収集した。
けっして腹の足しにはならないけれど。

新明解国語辞典 第5版 
まなざし【《眼差(し)】 
1 物を見る時の、その人の目の表情。 
2 「視線」の意の雅語的表現。 

●小学館 デジタル大辞泉 
まなざし【眼差(し)・目指(し)】 
目つき。目の表情。視線。「熱い−を向ける」「疑わしい −」 

●プログレッシブ和英中辞典 
まなざし【眼差し】 a look 
「疑わしげな眼差しで私を見た」 
 He gave me a suspicious look. 
「興味深い眼差しで絵に見入った」 
 He looked at [studied] the picture with (great) interest. 

●福永武彦「冥府」 
踊子は入口のドアに凭れかかって、訴えるような眼指で僕を見て 
いた。その眼には覚えがあった。 
(『人物表現辞典』中村明=編(筑摩書房ASIN:448000002X より)



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斎藤環は、このような「私小説的人格」によって書かれた文章の特徴を、「ごく控えめに」と謙遜しつつ列挙する。なかでも以下の指摘がぼくには興味深かった。「対象との距離感の欠如」「視点は常に線的というよりは「面光源」的かつ連続的で、対象の輪郭のみが注目され、視点の転換や複数の視点が対象を立体化することはほとんどない」「人物の会話は実質的には改行されたモノローグとなるか、もしくは主題のしりとりという線形性を回避することが困難となる」「たとえ三人称の小説であっても、実質的な視点は常に一人称的である」……。
こうした特徴をもつ「私小説的人格」による語り口が文壇内で一種の統制として機能しているのは、「言文一致がナショナリズムを基礎づけた」云々という「大きな物語」などではなく、たんに「文壇」という閉鎖的な場における「ローカルな政治的圧力」にすぎない、と斎藤環は言う。本当ならこちらの文章のサンプルも具体的に挙げてくれて、「症例」ないし「徴候」として分析してくれたら面白かったのだけれど、斎藤環自身が先に断っているように、こうした語り口は「任意の文芸誌を開き、任意の作品を読んだときに、しばしばあなたが感じてきたような失望感や脱力感のもとになるあの気分、これを形成している文体的問題に寄与する人格」によってもたらされるのであり、そのような「人格」は精神分析の土俵にはのりえないか、少なくとも関心をもちえないような対象なのだろう。



鴻巣友季子による村上春樹アフターダーク』書評(「文學界」2004年11月号)

彼の作品世界はいま、一人称のヴァリエーションでは語りえない何かを抱え、新たな表現方法とその「視野」を切実に必要としているのではないか。

漠然とした対象として従来訳されずにいた youを「君」と訳 して解釈を転換させたのが村上訳の『キャッチャー・イン・ ザ・ライ』だとすれば、神の視点の we を「私たち」と訳したのが『アフターダーク』だ、というのは仮定にすぎないが、村上春樹は自作のなかで起きている精神(人称)の変化過程を、(…)今回こうした形で透かし見せた部分があるのではないか。彼のなかで補完しあってきたという創作の世界と翻訳の世界が、どこかでひとつの地平につながった気がするのである。