意識の問題への「挑戦権」(茂木健一郎)

from http://www.qualia-manifesto.com/qualiadiary/qualiadiary9.txt via 認知科学徒留学日誌

最近、つくづく思うのは、意識の問題への「挑戦権」を得るための資質は、実は非常にハードルが高いということである。脳科学認知科学を一通り知っている(通り一遍の知識だけではなく、現場感覚を含めて)のはもちろん、数学、物理学(力学系量子力学、相対論、熱力学)、情報理論、言語の意味論(ヴィトゲンシュタイン)、生化学、生物物理学、システム論、哲学(デカルト、カント、チャーマーズベルグソン、ブレンターノ、ブロック、デネットチャーチランド、・・・・)、計算論(チューリングマシン)、知能論、学習理論、ロボティックス・・・・。それに何よりも、主観的体験の現象学的な細かいニュアンスを見分けるセンスがいる。
このような資質の一部を持っている人は沢山いるが、恐らくそれでは意識は解けない。例えば、哲学の議論をしている人は哲学から見た意識の議論はできるだろうが、数学的フォーマリズムを知らないと、恐らくブレイクスルーにはいけない。逆に、数学だけを知っている人は、意識の細かいニュアンスについての知識と感受性を欠いて、トリヴィアルなモデルを立てることが多い。生物学から来た人は、常識論に終わる傾向がある。言語よりの人は、言語空間に閉じて、開かれない。
意識は誰でも持っていて、誰でも知っていると思いがちだが、実は、大変な勉強をして、大変な努力を維持しないと、そもそも挑戦権でさえ得られない。維持できない。その上で、ASSC*1 のような場所に来て、どのような議論が行われているのか、目の当たりにしなければならない。
逆に、挑戦できる場所にいる者は、そのようなことが社会では滅多に起こらないことだということを認識して、select fewとしての自覚と責任を持たなければならない。意識の問題を解くために、精進を怠ってはならない。大げさではなく、人類全体に対するnoblesse obligeがあると思うのである。