理論言語学としての生成文法

id:odanakanaoki:20050628 でノーム・チョムスキー『言語と精神』の感想を読んだ。小田中さんが引用している「言語は知能にもとづき、それゆえ一定のルールを備えていると主張する」というところは、「〜、それゆえ一定のルールを 生得的に 備えていると主張する」と下線部を加えると主張をより明確にできると思う。

関連して思い出した本は、岩波科学ライブラリー『ブックガイド 〈心の科学〉を読む』id:editech:20050519。同書で大堀壽夫氏はサイバネティクスを引き合いに出し、生成文法の限界を指摘している。たしかに大堀氏の批判には首肯するけれども、「生成文法は理論言語学の一部門にすぎない」と考えればちょっと厳しすぎるかもしれない(たとえば、理論物理学に対して「理論的すぎる」という批判は無意味である)。

以下、同書「言語によって動的に構築される世界」(大堀壽夫)より引用。91-92頁
以下の引用で「規則に支配された創造性」とあるのは「生成文法」のことを指しています。下線は引用者による。

ベルタランフィのシステム論
 システム論と言えば、年代的には古くなるが、印象深いのがルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ『一般システム理論 ── その基礎・発展・応用』である。訳文はあまり読みやすくないけれども、地道に一歩ずつ読み進むにはかえっていいかもしれない。よくある話で、学生の頃は「大きな理論」に憧れた。「文」と「理」の間をうろうろしていた者にとって、サイバネティクス的なものの見方は非常に魅力的だった。言語学に興味を持つようになると、当然のごとくチョムスキー流の生成文法も学んだ。エレガントな計算システムによって自然言語の文法を特徴づけるというアプローチには感心すると同時に、ある種の違和感が常にそこにはつきまとっていたのも確かである。当時はその正体がわからなかったが、今こうしてベルタランフィの本を見直すと、適応と調節というサイバネティクスの基本プロセスが生成文法には決定的に欠けていたのだと思う。物象世界に始まり、意識世界も言語世界も時間の制約の中でのみ存在する(記憶が意識の発生にとって決定的な意味をもつことは右記の木下氏の本〔木下清一郎『心の起源 ── 生物学からの挑戦』中公新書〕で論じられている)。それに対し、生成文法の計算システムは本質的に無時間であり、適応プロセスが存在しえない仕様となっているのだ。

(中略)今になって見ても、ベルタランフィの言う「能動的な人格システム」としての人間観は、新鮮さを失っていない。「人間は外界からやってくる刺激の受動的な受け手ではなく、きわめて具体的な意味で彼の世界を創りあげるものである」というアイデアは、言語理論の中で生命を得るには本書から二十年近い時を要した。さらに、「人間の創造力や、個々人の違いが重要であることや、さらに、非効用的生存とか、生き残りという生物学的価値を越えた側面を強調すること」という課題は、十分に深化されぬまま今に至っている。思えば、「規則に支配された創造性」に対して、「規則を変える創造性」という考え方に眼を向けることを促してくれたのは池上嘉彦氏の一連の著作だった(『詩学と文化記号論』等)。これは心の科学の先端的課題と言ってよいだろう。