柴田元幸さん『アメリカン・ナルシス』を語る

アメリカン・ナルシス メルヴィルからミルハウザーまで』柴田元幸 著、東京大学出版会 A5判 272頁 税込3360円/本体3200円 http://www.utp.or.jp/shelf/200505/080104.html
 

from アメリカ文学の継続と断絶  トークショーレポート(2005年6月19日 於:池袋ジュンク堂)★森田 亮(フリー編集者) http://www.utp.or.jp/todai-club/2005/09/05/aeaauuoyeyyycoycyayeyyoyeyeyyuoie/

今でこそ僕は現代アメリカ文学の専門家のような顔をしていますけど,考えてみると,実はアメリ現代文学を専門にやろうと思ったことは一度も無くて,ひところはむしろアメリカの古典文学,と言ってもアメリカの場合日本みたいに10世紀も遡ることはなくてせいぜい1世紀くらいですけど,19世紀のアメリカ古典文学の研究者になりたい,と思っていたんです.その頃僕は一応大学院生として論文を書いていましたが,何をどう書いたらいいのか,ということが全く分かっていなかった.それが博士課程の2年くらいに,三浦雅士さんのデビュー評論集『私という現象』を読んで,最初は難しくてよく分からなかったんですが,何ヶ月か後に読み直したらものすごく面白くて,そうか,論文というのはこういうふうに書けばいいんだと思った.しばらくは何を書いても三浦さんの猿真似でした.そこから,僕自身もこういうことを書きたいんだ,ということが何となく見えてきた.それが一番大きな転機でしたね.
それからもう一つ,当時はそう思わなかったけれど,今翻訳の仕事を主にやっていることを考えると,それについて大きく学ぶところがあったのは,藤本和子さんが訳されたリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』です.1975年1月に出てすぐ読んで,素晴らしい小説だし素晴らしい翻訳だと思いました.『アメリカの鱒釣り』は晶文社でハードカバーが出てから30年経ってやっとこの夏文庫化されることになって,僕が解説を書かせてもらったんです.もうすぐ新潮文庫から出ますから,藤本さんの素晴らしい訳を是非お読みになってください.三浦さんの『私という現象』も,講談社学術文庫に入ったときに解説を書かせてもらったので,僕は自分が一番影響を受けて心酔した本2冊の文庫化に際して仲間に加えてもらえた.つくづく幸運だと思います.
ブローティガンを読んだときに僕の翻訳観は本当にがらっと変わったんですが,それは簡単に言うと,それまでのアメリカを仰ぎ見て学ぼうとする訳文から,アメリカを水平に見てそれを楽しもうとする,味わおうとするでもいいんだけど,訳文自体が生きている文章にそこで出会った,ということなんですね.その後の日本でのアメリカ小説の翻訳はあの藤本訳なしには考えられないと思えるくらい,影響は大きかったと思います.

僕が序文で素晴らしいと思うのは,これとピンチョンの短編集The Slow Learner『スロー・ラーナー』(ちくま文庫に邦訳あり)の序文ですね.この本も若いころに雑誌で発表して単行本になっていなかったものを何十年か経ってまとめて,その序文を書いているわけです.ホーソーンと全く同じで若き日の自分を振り返っている.そういう形ってやっぱり良いのかな.『スロー・ラーナー』は小説ももちろん面白いですけれども,正直言ってあの序文が一番面白いですね.

さっき三浦雅士さんのことを話しましたけれど,大学院生の頃に,村上春樹さんはもちろん好きだったし,他に入れ込んでいたのが,寺山修司の童話『赤い糸で縫いとじられた物語』と,岸田秀の『ものぐさ精神分析』などの心理学です.言っていることはみんな同じだと思うんですね.これはエッセイにも書きましたけれど,要するに「私というのはフィクションであって,人間というのは自分が何者であるのか分からない,というのがむしろ基本形だ.それをみんな,適当に物語を作って分かったような気になっているだけである」ということ.だから僕は授業でも,学生がアイデンティティっていう言葉を使うとそれだけで嫌な顔をする(会場笑).でも今の学生は本当に気の毒で,それを世の中からも求められている.就職活動に行って,人事の人に「あなたらしさとは何ですか」とか言われて(会場爆笑).分からないですよね,そんなの.ご質問に戻ると,自分が何々である,というのはすごく嫌で,何々ではないらしい,という言い方を並べるほうが好きなんですね.

アメリカン・ナルシス』の終章にちょっと,ほとんど予感みたいにして書いたのは,10年20年前は,マスメディアがばら撒くイメージが氾濫して,それによって自分自身が何者かが見えにくくなっている,という話だったんですが,今は子供の頃からテレビやビデオを見て,そういうイメージを吸収して育ってきているので,むしろ今はそれこそが僕らの無意識かな,と思うんですよ.もしアイデンティティみたいなものを組み立てられるとしたら,そういう子供の頃から吸収してきている,アニメのキャラクターでもなんでもいいんですけど,そういう情報が,自分を見えにくくしているんじゃなくて,むしろそれが自分をつくっている素材なんじゃないか,と思うんですね.ひょっとしたらこれはかなり大きな転換かもしれないし,そうじゃないかもしれませんけど,いまのアメリカ小説で面白い作品はとにかくそういうことを感じさせてくれます.


私という現象 (講談社学術文庫)

私という現象 (講談社学術文庫)

以下、『私という現象』の「学術文庫版のためのまえがき」より。

考え方の変化もさまざまな事件や雰囲気に左右されるひとつの現象にすぎないが、いまは、人間が人間になった段階から、私という現象の根本的な仕組みはほとんど変わっていないのではないかという気がしている。だからこそ、古典が存在しうるのである。表現の変容など、ある意味では、些細な問題にすぎない。
 文学も実人生も虚構であることに変わりはない。人は作品に接するようにその人間の人生に接するほかないのである。私小説は事実に基づくというが、事実そのものがすでに操作されたものなのだ。私をひとつの現象と見なす考え方は、文学作品の質を、それが事実に基づくかいなかによって判断しようとする立場を無効にする。逆にいえぱ、どのような虚構も、彪大な事実の堆積にほかならない。
 おそらく、真実を測る基準は、ただ感動だけである。そして感動は、生の力の放射以外ではない。人は、感動させるためにはむろんのこと、感動するためにも莫大なエネルギーを要する。あるいは、真実とは莫大なエネルギーのことであると言うべきかもしれない。