『消滅する言語 人類の知的遺産をいかに守るか』

『消滅する言語 人類の知的遺産をいかに守るか』デイヴィッド・クリスタル著、斎藤兆史・三谷裕美 訳、中公新書、2004
遅ればせながらざっと読んだ。もうちょっと翻訳は良くなると思うが、読みづらいわけではない。参考文献にジーン・エイチソン『Language Change』(2nd, 1991)が挙がっているが、著者の名前が誤植 Joen→Jean。邦訳も(とりあえず)ある:『言語変化──進歩か、それとも衰退か』リーベル出版)。さらに、『Language Change』は第3版が2000年に刊行されている。

消滅する言語
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言語変化―進歩か、それとも衰退か

言語変化―進歩か、それとも衰退か

Language Change: Progress or Decay? (Cambridge Approaches to Linguistics)

Language Change: Progress or Decay? (Cambridge Approaches to Linguistics)


『消滅する言語』の49〜50ページは「言語遺産」がテーマで、スタイナーの言葉が引用されている。以下は言及箇所の引用。

言語遺産
 言語が歴史を内包しているということについては、ほかの見方もある。言語は、具体的に選択された語句を通じて、昔の話者たちの気持ちや、彼らが経験した文化的接触がどのようなものだったのかを知る手がかりを与えてくれる。『オックスフォード英語辞典』の語源録には、三五〇を越える現存の言語が並んでいる。それぞれの語源が、その存在によって歴史・文化的接触や影響関係を示している。語は社会の歴史を如実に示している。この点で、ジョージ・スタイナーの言葉は示唆的である。「すべてのものが忘却を経験する。言語をのぞいては」。ある言語のもともとの語彙中にある何万もの語や語法や比喩、さらにそれらを組み合わせるための多数の文法を見れば、たとえ二つの言語間であっても、その相互作用がいかに大きいものであるかがわかる。そして、「給源」に存在する数千の言語を考えれば、人間の言語能力から生まれる表現の可能性はおよそ想像もつかないほど大きい。これぞまさに言語遺産の豊かさである。共同体の独自性であれ個人の独自性であれ、それが個々の立場の表現を可能ならしめる力は無限に近い。マイケル・クラウスも同じ点を強調している。


たしかに、スタイナーの引用は気が利いているが、引用元の「空洞の奇蹟」(『言語と沈黙』所収、せりか書房)の前後を読むと、危機言語の話で引用していいものかどうか(もしや、あえて「毒」〔斎藤兆文〕をふくませているのかも)。引用されている文の前後は以下のようになっている。なお、引用部(訳文異なる)に下線をつけた。

 あちらこちら、事実、古顔が復活しているのだ。裁判所の椅子には、ヒトラーの流血の法で断罪していた裁判官たちが、何人か、すわっている。たくさんの教授の椅子には、おなじ大学のユダヤ人や社会主義者の教員たちが死地に追いやられたとき、まっさきに昇進させてもらった学者たちがすわっている。ドイツやオーストリアの大学の多くでは、弱いものいじめの連中が、またも帽子をかぶり、リボンを飾り、果し合いの痕跡をみせ、<純粋ゲルマン系>の理想とかをかかげて、闊歩しているのである。<忘れようじゃないか>、これが新しいドイツ時代にとっての連祷の文句である。自分では忘れきれないひとでも、他人にはそうするようすすめるのである。過去の恐怖と充分にかかわっている高級な文学のごくわずかな作品の一つが、アルブレヒト・ゲースの『焔の生贄』である。ひとりのユダヤ女性が<彼女>の行くさきでは赤ん坊を生む暇はないだろうとゲシュタポの将校に命じられて、親切なアーリアン系の店主の妻に乳母車をあずけて出発する。その翌る日、彼女はガス室に輸送される。乳母車も空にされて語り手のもとにとどくが、犯されつつあることの総額があらわになってくるのだ。語り手は、神への焔の生贄となって、自分自身の生命を断つ決心をする。これは秀れた物語だ。しかし、冒頭で、ゲースは、「人々はもう忘れてしまった。そしてまた、忘れられてしまわなくてはならない。なぜなら、忘れることのできないものが、どうして生きていけるだろう」と述べるべきかどうか、ためらっている。そのほうがよかったのだ、ひょっとすると。
 なにもかもが忘れてゆく。しかし、言語だけは、そうはいかない。言語に虚偽が注入されてしまったからには、それを清めうるにはもっとも徹底した真実による荒療治がなくてはならない。だというのに、ドイツの言語について戦後における歴史というのは、隠蔽と故意による忘却の歴史となってつづいてきた。恐怖の過去の記憶は、おおがかりに根絶されてしまった。しかし、その代価は高かった。そして、ドイツ文学はいまこそその酬いをうけようとしているのだ。才能ゆたかな若い作家たちはいる、ある程度は名声を博している二流詩人はたくさんいる。しかし、重要問題をあつかった文学として発表されているものの大多数が、気がぬけた、まやかしものだ。その内部に生命の焔というのが欠けている。今日のジャーナリズムのうちでもっとも秀れたものと、ヒトラー以前の『フランクフルター・ツァイトゥング』紙のどれか平均値をもつ一号とを比較してみるとわかるが、この両方とも同じドイツ語で書かれているとは、ときどき、信じがたくなるほどである。

言語と沈黙
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