「リベラリズム」における思考の型

日経新聞2004年5月1日 文化面「自由を問う 過剰な自由、どう生きるか」を読んで

この記事で大澤真幸氏は記者(文化部 富田律之)に対して、自由をめぐる現在の状況を以下のように述べている。

若者のフリーター化、各国の自由な経済活動の延長にある環境問題のように「あまりにも選択肢の多い過剰な自由が、自由を窒息させている」

続いて、大澤氏とともに『自由を考える』(NHKブックス)を著した東浩紀氏はこう述べている。

「何が真の自由かといった抽象論にはもう意味がない。情報化社会の技術や市場の具体的な問題として自由をとらえるべきだ」。例えば、監視カメラ。「自由でいるためには安全でなければならないという論理で安易に設置しているが、本来監視されることは自由を意味しなかった。そうして求めた自由が日本的ムラ社会特有の『規範から外れた者の排除』に流れるのは目に見えている。市場や技術は基本的に自由ではないことを自覚すべきだ」

東氏の「監視カメラ」に関する言及からは、ミッシェル・フーコー の「一望監視装置」を想起させられたが、ここでは深入りせず指摘するにとどめる。残念ながら『自由を考える』は読んでいないため、この記事だけでは両氏の指摘の正確な意味はわからない。完全に納得することもできない。ただ、両氏の指摘は、ロナルド・ドゥオーキンが『権利論 II』第11章で述べた言葉とつながっているように思えた(邦訳書では、55〜56ページ。〔 〕は補足)。

私が念頭に置いているのは自由の伝統的な定義、すなわち人がそれを望めば行ってもよいことに対して政府の課する拘束が存在しないこと、という自由の定義である。〔アイザイア・バーリンが『自由論』で示したように〕好きなことを行えること(license)として自由を観念することは、人が追求しうる多様な行動に対して中立的である。もしある人が好きなように話したり恋愛することを我々が阻止すれば、我々はその人の自由を減少させたことになる。しかしまた、この人が他人を殺したり他人の名誉を毀損したりすることを我々が阻止したときも、我々は彼の自由を減少させているのである。後者の自由の制限は正当化されうるが、これは単にこの制限が他の人々の自由ないし安全を守るために必要な妥協だからであって、この制限自体はそれ自体において自由の独立した価値を侵害するものではないという理由によるわけではない。ベンサムはどのような法であろうと法は自由の「侵害」であると述べた。…… 好きなことを行えることとして自由を中立的で、すべてを包括するような意味で捉えるならば、自由と平等は明白に競合する。法は平等を守るために必要とされ、法は不可避的に自由を侵害するものとなる。

東氏の「監視カメラ」とドゥオーキンの(「制限」を含む)「法」は、正義という名の下で一直線に並んでいる。「正義」では意味する範囲が広すぎるというのであれば、「正しき行い」と言い換えてもよい。いずれにせよ、思考の型は同じだ。「監視カメラ」も「法」も正しいモノと思われている。これらのモノたちがある種の権力と結び付いた場合、まさにジョージ・オーウェルの『1984年』的世界が体現されることになる。甘い考えなのかもしれないが、これは不可避なわけではないはずだ。
大澤氏の言うように抽象論には興味はないが、「過剰な自由」というのはちょっと違うように思う。自由はあるけれども、技術・制度・社会(あるいは地域コミュニティ)への関わりが希薄に感じられるのだ。