イージーライダーと「モラルが失われていくプロセス」

内田樹の研究室 2004年5月19日 Easy Rider と少年探偵団 より

本日のテーマは聴講生 岡崎宏樹さん(京都学園大学)の「カウンター・カルチャー」。面白いテーマである。(中略)「あのシクスティーズ」がどういうふうに社会学的に定義されるのか、その学問的位置づけと、リアルタイムであの時代を生きた人間の実感のあいだには、どのような「ずれ」があるのであろうか。
さすがに新進気鋭の社会学者の分析はシャープかつ周到。「あの時代にいなかったのに、なんでそこまで分るの?」と不思議な気分になる。(中略)
私の個人的印象を言えば、63年のケネディ暗殺をひとつの指標として、「ゴールデン・エイジ・オブ・アメリカ」は終わり、以後長い退潮期に入る。もちろん物質的な繁栄はむしろそこから始まるのだけれど、カウンター・カルチャーは、その「没落」にむかって、アメリカの多様性が失われてゆく、最初の契機である。(中略)
自由であるためには、幾多の不自由を忍ばねばならなかったのである。だから、70年代に入ってから、村上春樹が「気分がよくて、何が悪い?」と反問したのはのはこの「自由についての抑圧的なガイドライン」に対してだったのである。あの問いは、「カウンター・カウンター・カルチャー」だったのであるけれど、それはまた別の話だ。(中略)
63,4年をさかいにアメリカの「モラル」は劇的に瓦解してゆく。その最初の徴候がカウンター・カルチャーの登場である。これによって、アメリカ社会は「メイン・ストリーム」と「カウンター」に二分割された。それ以外の「あいまいな」カテゴリーは存在することができなくなった。(中略)
イージーライダー』の逆説は、「馬はないでしょ、もう。これからはバイクでしょ」という西海岸「アウトロー」の意識の変化と、「『ライダー』つうたら、ふつう馬だろが」というテキサスあたりのおっさんの意識の停滞のあいだの「歴史の流れの速度差」にある。アメリカには明治維新がなかった。このことの重要性を日本人はあまりご理解されていない。日本では、「前近代」と「近代」のあいだのクレバスははっきりしている。(中略)
なにしろ、あの国には同性間の結婚を認める州と、進化論を教えてはならない州が併存しているのである。だからこそ、「同時代を生きている」つもりのアメリカ人の間の歴史感覚の「ずれ」は、時には私たち日本人には想像もできないくらいに致命的に深いのである。(中略)
イージーライダー』は、アメリカが分裂してゆく過程を描いた映画ではない。むしろ、アメリカが自分たちは多様な集団を含んだ混質的な社会であるという自己認識を失い、「どこでも、『ここ』と同じだろ」というなめた他者認識を国民全員が(殺されるライダーたちも、殺す農夫たちも)共有してゆく過程を描いている。私はそれを「モラルが失われてゆくプロセス」と呼んだのである。
だから、「自分の国」のつもりで「異国」に気楽に乗り込んでゆくライダーと、「こんなやつらはアメリカ人じゃねえ」という理由で気楽に二人を撃ち殺す農夫たちは、それぞれに「それから後のアメリカ」の実に適切な予兆だったのである。