生き延びるためのラカン 斎藤環

第18回 転移の問題 ──その(1) ──

精神分析はそこに「転移」という限界設定をクサビのように打ち込んだ。ひとは万能じゃないからこそ、けっして転移から自由になれない。しかしその転移こそが、治療の必要条件なのだとしたら(ちなみにユングは、転移を必要不可欠なものとは考えていなかった)? 精神分析の営みは、治療者にある種の限界を突きつけながら、常に謙虚さを要求するような、倫理的営みにもなりうるだろう。この問題をラカンがどのように扱ったか、それは次回のお楽しみ。

【おまけ】この連載の第1回で斎藤環は以下のように連載趣旨を述べている。内容とは関係ないけど、これは地の文なのか、編集者が手を入れているのか、けっこう気になる。

 いまやラカニアンはフランスだけじゃなく、世界中にたくさんいる。ラカンの言葉は、難しいけど曖昧じゃないし、すごく切れ味も良い。おまけに死ぬほどカッコいい。エッセイや論文とかにちょっと引用すると、頭が良くておしゃれな感じでポイント高し。さっそく応用してみよう。そうだな、彼女にふられたら、ためしにこう呟いてみるといい。「女は存在しない」。どう? 癒されること限りなし。おや、ますます絶望したって? 君、ちょっとラカニアンの素質あるかもね。
 さて、この連載で僕は、日本一わかりやすいラカン入門をめざそうと思う。なんでそんなものを目指すのかって? 今までなかったからさ。僕の見たところ、いまの社会は、なんだかラカンの言ったことが、あまりにもベタな感じで現実になってきているような気がする。精神分析そのものには、もう昔ほどの力はないけれど、なにもかも失敗だったと片づけるにはあまりにも惜しい人類の知恵だ。とくにラカンの考えたことは、ラカンが生きた時代よりも、おそらく今のほうがずっとリアルに感じられると思うんだけどな。