アドルノする

id:flurry:20031216 より引用させて頂きました。

テオドール・アドルノは)一九六〇年代初頭には、先に触れたポッパーとの間で、社会学における「実証主義」の有効性をめぐって、大きな論争を繰り広げた。科学的な客観性を批判的社会科学にも求めようとしたポッパーに対し、アドルノは、客観性の基礎になる人間の「理性」を徹底的に疑い続けた。ドイツの哲学・思想史では、アドルノは明晰に「理解」されることを拒んでいるかのように、アイロニーと逆説、暗示に満ちた文章を駆使する、もっとも難解な──海外の研究者にとっては翻訳しにくい──思想家として知られている。「普通の人にはとても分からない言葉遣いをする」ことを意味する、<adornieren(アドルノする)>という動詞ができたほどである。
 では、アドルノはなぜ分かりにくく書くのか?
(略)
 そこでアドルノは、徹底的に「哲学」的になる、という戦略を採った、と筆者は考える。一般の人にとって、「分かりやすい」と一見思われていることが、実は「分かりにくい」ことを、ひねくれた文体を駆使することで示そうとしたのである。一見「分かりやすそう」に見えて、読み進めていくとだんだん「分かりにくく」なり、そう思っていたら今度はまた一見して「分かりやすそうな」オチが出てきて……と、何重にも「ひねり」を加えることで、(大衆的な)「現実」に迎合するのでもなく、またそれから目を背けるのでもない両義的な態度を確信犯的に取り続けたのである。
 アドルノの「ひねり」は、自分自身の「人間的理性」さえも信用できなくなった状況で、哲学者に残されたミニマルな道徳の試みとして理解すべきであろう。
仲正昌樹『「不自由論」──「何でも自己決定」の限界』ちくま新書 p.30-33)