倉橋由美子『あたりまえのこと』

解説:豊崎由美

あたりまえのこと (朝日文庫)

あたりまえのこと (朝日文庫)

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 例えば涙の泉である感情というものがあって、小説はもっ
ぱらこちらに訴えるものだというのは、わかりやすいようで
実は不自然な考え方である。(中略)涙の分量などは小説の
力と直接の関係はない。涙なら涙腺を刺激すればいくらでも
出る。(「嘘」)

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村上春樹の『ノルウェイの森』のラストを引用してから〕
「僕」は別に、「ここはどこ? 私は誰?」と言い出すよう
老人性痴呆症にかかっているわけではなく、意識と感情だ
けで浮遊している人間にはこうなることもありうるという
フィクションを示しただけのことです。いかにもそれらしい
フィクションではありますが、こんな夢みたいなことは本当
はありません。小説の最後になって主人公がこんな夢の中に
漂っているようでは、ここにいたるまでの長い話を読もうと
いう気力も萎えてしまいます。しかし作者が歌い手となって
長い叙事詩を歌って聞かせたのがこの小説だと思えば納得が
いきます。歌の終わりならこんな風でもよいのです。(「歌
としての小説」)

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