不連続な読書日記 ■ No.286 (2005/09/10)
▼「比喩を使っていたら世界[リアリティ]は開示されない」というのがよくわからない。それは、「リアリティのない比喩[世界(観)]」を使っているためではないのか。
from メルマガ「不連続な読書日記」(中原紀生)■ No.286 (2005/09/10)
保坂和志+石川忠司「小説よ、世界を矮小化するな」(『群像』10月号に掲載)を読んだ。面白かった。保坂和志いわく「僕は、小説は部分だけ読んでいて構わないと思っているのね」(206頁)。「最近僕はエッセイを十五枚ぐらいの長さで書くことにしているんです」。「でも、彼[村上春樹]は考えをつくったんじゃなくて、文章をつくったんだよね。だからみんなに使われる。村上春樹以降の人は、文章で小説を書くんじゃなくて、考えで小説を書かなきゃいけないと思うんだよ」(210頁)。「[五枚から十枚ぐらいの長さでまとめられた]エッセイみたいにこぢんまりとした作品を完成させるのに都合のいい文章は持っているんだけど、とめどなく考えを先に進められる文章は持っていないということなんだと、今僕は思っている」(210頁)。「比喩というのは世界に向かわず、言語の中で次から次に移っていくことだ……だから、やっぱり比喩を使っていたら世界[リアリティ]は開示されない、きっと。…言語と世界をいかに結びつけるかということを忘れたら小説は大人が真面目に読むものじゃなくなると思う」(214頁)。
石川忠司が「2001年の保坂和志」(『世界を肯定する哲学』)と「2002年の保坂和志」(「文学のプログラム」/『言葉の外へ』所収)を図式化して、その間の「ゆらぎ」もしくは「矛盾」を衝いていた。両者に共通しているのは「人間(肉体)に対する世界(存在)の先行性」(211頁)なのだが、「図式1[2001年]では世界の先行性、世界と人間の断絶を敢行していたのは言語の「裏地」、言語の肉体的側面だったのが、図式2[2002年]では逆に言語の「表地」、肉体性からかけ離れた純粋な論理・思考的側面になっている」(212頁)。保坂和志いわく「それは自分だってわかっていないんだもん」。石川「しっかりしてよ」。保坂「人任せにするなよ(笑)」(213頁)。