宮台院ゼミ本『21世紀の現実〜社会学の挑戦〜』あとがき

社会学からの全体性の脱落に抗して、いま何が必要なのか(宮台真司http://www.miyadai.com/index.php?itemid=31

 別の機会にも記したが、ブント活動家でもあった哲学者の廣松渉に傾倒していた二五年前の私は、彼から「この論争はルーマンの勝ちだ」と言われ、そのことが社会システム理論にコミットする個人的な契機になった。むろん廣松の判断はある種の政治主義に基づく。
 巷は「市民派左翼ハバーマス」と「テクノクラート主義者ルーマン」が対立しているとの理解だった。だが廣松は、ドイツの新左翼は通念に反してハーバマスよりもルーマンを評価しているのだと教えてくれた。理由は政治的有効性だと言う。まさしくむべなるかな。

本当に「複雑な社会システムでは因果モデルの追求は不毛」とまで言っているのか要確認。

 現実観察から得た初期条件(周辺条件)をモデルに入力すると、一定の出力変数が得られて、それが現実観察から得られたデータに合致する場合に、モデルは「現実適合的」だと評価される。現実適合的なモデルは、現実の説明・予測・制御に用いることができる。
 言うまでもなくモデルビルディンクは「真理の言葉」ではない。モデルは現実適合性という機能の高低によって──すなわち「機能の言葉」によって──、相対的に評価される。そこでは同一の説明力(という機能)を持つ競合的なモデルの存在が予め想定されている。
 この説明力が、説明や予測の一意性──因果的決定──によって評価されるのが自然科学的な因果モデルだが、これに対しルーマンは、複雑な社会システムでは因果モデルの追求は不毛だとし、認識利得を機能的等価項目の開示に置く機能モデルを提唱したのだった。