対談を愛す その3 吉本隆明×谷川俊太郎 『吉本隆明対談選』

吉本隆明対談選』講談社文芸文庫、2005

吉本隆明対談選 (講談社文芸文庫)

吉本隆明対談選 (講談社文芸文庫)

文学と思想(江藤淳)
思想の流儀と原則(鶴見俊輔)
世界認識の方法(M.フーコー漱石的主題(佐藤泰正)
素人の時代(大西巨人)
言葉の現在(高橋源一郎)
僕らが、愛してゆくこと老いてゆくこと詩を書くこと(谷川俊太郎

谷川俊太郎との対談「僕らが、愛してゆくこと老いてゆくこと詩を書くこと」(pp.356-357)より。

谷川 今の読者というのは、ぼくらが詩を読んできた頃の速度とは大分違う速度で読んでいるんじゃないか、ということは感じます。一つの例でいうと「劇画」だと思うんだけど、劇画っていうのはある速度で読まないと読めないところがある。今の世代の人は速い速度で読んでますよね。われわれの世代はどうしても一場面一場面で立ち止まっちゃうところがあってムーピー的に読むことができにくい。劇画には絵と文字があるわけだけど、ぼくらは一行一行立ちどまって読む意識がある。だけど今の若い人には読む言葉書く言葉と話し言葉の区別なんてないと思うのね。音楽的に活字を読んでいるんじゃないかなあというふうに思うところがあるんですね。だから昔は、詩といえばほかのものと違うものとして一つのジャンルを形成していた。だけど、今は、詩的なものというのが瀰漫(びまん)していて、漫画の中にもあるし映画にもあるし音楽にもあるしという非常にあいまいなものになってきてしまっている。その中で現代詩の書き手も、映像とか音楽とか話し言葉に押し流されつつあって、ぼくなんかが映像の形で「ピデオ詩」みたいなものを試み始めたのもきっとそんな時代のあらわれなのだ、というように感じますね。
吉本 この間、日比谷の野外音楽堂にRCサクセションを聴きに行ったんです。そしたら、清志郎が「死にたいやつは死ねばいい」って歌ってるんですね。生きてたっておもしろくねえから死ねばいいとかやってるんです。要するに、死ぬとみんな優しくしてくれる、だから死にたいやつは死ねばいいって言ってるんです。ハッと思って、感心しながら聴いていた。そしたら最後のところで物すごい冷たいことをいったんですね。死んだって生きたってどうせ ―― なんと君ったらいいんでしょう、言葉は違うんですが ―― 芸の問題なんだ大したことはねえんだ、という意味のことを言ってるんですね。ぼくはすぐ岡田有希子の死を連想したんですけど、ぼくは「鳩よ!」の講演で岡田有希子のことを話したんですね。そのとき、しゃべりながら自分で、これは違うんだ、この言い方とこの持っていき方は違うんだ、というのがあったんです。どこかで嘘をついている、みたいなことがあるんですね。自分で違和感がある。ぼくは、だから清志郎のを聞いて感心したんです。つまり、この人は正確だと。こと芸能」大衆芸術の領域で起こる出来事に対する感応の仕方だったらこの人のほうが正確だって思ったんです。ぼくらのは最後にまじめになっちゃうところで嘘というか自分の言ってることに違和感がある。そのところが(清志郎の場合)ピタッときてるんですね。詩の表現についても同じでぼくらがまじめな顔になる分だけ、嘘なんじゃないか。ずれがでてきてしまう。それで、このずれというのは意図したって決して埋まらないずれ〔「ずれ」に傍点〕なんです。このところは谷川さん、どうなんでしょうか。あまり気にすることではないと――。