心的事実と社会的事実の形而上学〜クオリアと道徳の相対主義的実在論の試み〜(水本正晴)

●博士論文要旨 http://www.soc.hit-u.ac.jp/thesis/doctor/04/summary/mizumoto.html
●博士論文審査要旨 http://www.soc.hit-u.ac.jp/thesis/doctor/04/exam/mizumoto.html
【関連文献・リンク】「科学哲学」39巻1号 2006/06 ISBN:4411901706(日本科学哲学会)所収
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博士論文要旨
論文題目:心的事実と社会的事実の形而上学クオリアと道徳の相対主義実在論の試み〜
著者:水本正晴(Mizumoto, Masaharu)
博士号取得年月日:2004年11月17日
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要 旨
本論は、形而上学の再構築を目指す。特にそれは、クオリアや道徳の事実を実在論的に説明できる形而上学へ向けた再構築である。
 今日心の哲学の中で「クオリア」を巡る問題が盛んに論じられている。だが、それが難問として持ち上がってくるのは、現代哲学における広く共有されている物理主義的前提ゆえであると著者は考える。このことを第一部において、現代心の哲学に則してより詳しく見ていく。そこで「心とは何か」という主題を様々な観点から見ていくことを通して、心の科学一般の中で心の哲学の他の諸科学にない問題関心とは、まさに形而上学的関心なのだということが論じられる。さらにそこでの心の概念的分析によって、心が脳に局在するのではないということ、それゆえ心的事実は(歴史をも含む)脳の外の取り囲みに依存する社会的事実として捉えられる、ということが示される。だがそのような心的事実の中でも、例えばクオリアを伴う心的状態(「彼は(私は)頭が痛い」)についての事実は共有できても、クオリアそのものは共有できない以上、クオリアだけは何か「主観的」なものであり、社会的事実には還元できないように思われる。それどころか、物理主義の観点から見れば、クオリアについての事実がもしあるならば、それは物理的事実以上の何かであるように思われ、結局物理主義は偽であるとするか、あるいはそのような事実は錯覚のようなものであり、本当は存在しないとするか、という二者択一を迫られるように思われる。実際筆者は物理主義は正しくないと考える。しかしながら、それはクオリアに関する事実ゆえにそう考えるのではなく、それがそもそも神秘となるような形而上学的枠組みそのものが間違っていると考えるからである。そしてまさに本論は、それゆえ、そのような物理主義に代わる独自の形而上学の構築を目指すのである。
 ここで筆者は諸科学の理論を「認識能力」の一種と捉えることによって、諸科学が階層を成す、という物理主義(より一般に科学主義)が前提する「層化された世界」の描像を説明する。それによれば、諸層間の還元の関係は、認識的問題であり、還元の可能性/不可能性から形而上学的帰結は導けない、とされる。これによってクオリアの事実も、人間(や他の動物)に自然に備わった認識能力によって身体や環境(のあり方)が認識されるその仕方についての事実、として他の認識能力によって捉えられる事実と同様、自然に世界の中に位置づけられるように思われる。
 だが問題は、そのように言えるためにはそもそもその「認識能力」が正しいものである、という前提が必要であることである。我々はここで、認識能力が正しいことを言うために、まず認識されるものが事実としてある、ということを主張することはできない。認識されているものの実在性が問われている以上、それは論点先取であるからである。しかしでは、我々はいかにしてこの認識能力を正当化することができるのだろうか。
 第二部において、我々はこの問題に答えるために、伝統的懐疑論を考察し、それにより我々がいかなる時に「知っている」と言えるかを、世界の側の事実を前提することなしに説明する理論を与えることを試みる。そして形而上学的概念である「事実」を、そこで定義された知識によって、「知られたもの」として捉えることにより、「内在主義的」と呼べる形而上学を提示する。そこではクオリアの事実も、心的事実一般が還元されるところの社会的事実も、知られうる限りにおいて物理的事実と何ら劣らない実在性を認めることができる。問題は、それが内在主義的理論であるため、世界の諸事実の実在性は、我々の信念の「収束」に依存しているように思われることである。
 社会的事実は規範的事実であると言えるが、規範的事実をこのように信念の収束を手がかりに実在論的に擁護しようとするのが道徳実在論であると言える。そこで筆者は、すでに与えた知識の定義を助けに、今度はウィトゲンシュタイン解釈に基づく「アスペクト」という概念を用いて道徳実在論を再構成する。これは主に知覚的なモデルに依存するが、それゆえ(直接)実在論的なものであると言え、またこれを非知覚的な信念に一般化したものとして先の知識の分析を捉えなおすことにより、内在主義と実在論を繋げることができる。
 第三部は、第一部の心の分析の形而上学的帰結と第二部の知識の分析の形而上学的帰結とを「中心を持つ世界」という概念で総合することを目指す。
 第二部までで論じられた内在的実在論は、道徳実在論クオリアの事実を論じる文脈では説得力があるとしても、「世界全体」についての形而上学の体系としては不完全なものである。中心を持つ世界という概念が持ち出されるのはこのためであるが、このような概念に基づく形而上学は、相対主義的なものにならざるを得ず、それを実在論的なものと考えるのは困難であるように思われる。そのためには特に、視点相対性(ある人にとっては存在し、別の人にとっては存在しない)と文脈相対性(ある文脈においては存在するのに、文脈が変われば存在すると言えなくなる)という、二つの相対性を克服する必要がある。両者ともよく知られた事実であるが、それは普通「見え」の問題として主観主義的に説明される。著者は、それに対し、これらを実在論的に説明する形而上学、すなわち相対主義実在論と呼ぶべきものを提案する。クオリアの事実や道徳の事実はここで初めて「中心を持つ世界の事実」として、自然な仕方で実在的に捉えられることになる。
 このようにして、相対化され、かつ全体論化された形而上学は、世界のダイナミックな変化に対しても、ニヒリズムに陥って反実在論に屈しないための防波堤の役割を果たすことであろう。