柴田元幸氏講演「小説の翻訳」2009年10月24日(東京言語研究所公開講座)

先週の土曜(10/24)に東京言語研究所主催の柴田元幸氏講演に行ってきました。非常に面白かったので、メモをまとめたものをこちらに公開します。細かい言い回しはちょっと違うと思いますが、そのあたりはご勘弁を。

東京言語研究所 2009年度第3回公開講座
日時:2009年10月24日(土)14:00〜17:00
講師:柴田元幸
演題:「小説の翻訳」


●翻訳者の自己正当化技法
1. けなす
2. 自己撞着(自分をほめそやす)

●J・ルービンが訳した村上春樹の小説『ねじまき鳥クロニクル』。英訳名は『The Wind-Up Bird Chronicle』。
http://www.amazon.co.jp/dp/0679775439/
この本には、翻訳者の名前が出ていない。これは特殊なわけではなく、アメリカの翻訳本によく見られる現象である(ルービンに「訳者の名前が出ていないじゃないか」と言うと、本気で怒ったりするんだけれど)。向こうの人たちというのは、それをそれほどおかしなことだと思っていないらしい。「翻訳者が違っていたって中身は一緒でしょ」という感じなのだ。実際にはそんなことはないことは我々はよく理解しているけれども、あちらの国での翻訳者の位置付けというのがよくわかる話でもある。
実際、翻訳者によってどれくらい内容が変わるかをよく示しているのが芭蕉の有名な句(古池や 蛙飛び込む 水の音)の翻訳である。次の例を見て欲しい。

Matsuo Basho's Frog Haiku (30 translations)
30 English versions of Basho's famous frog haiku, with commentary by Robert Aitken.
http://www.bopsecrets.org/gateway/passages/basho-frog.htm

サイデンステッカーやドナルド・キーンの訳は、定訳と位置付けられるだろうけれど、どうも型にはまった訳を提示せざるを得ない窮屈さを感じる。

The quiet pond
A frog leaps in,
The sound of the water.
  ──サイデンステッカー

この翻訳の印象を、実際に英米人に聞いてみると、「The sound of the water」というのがよくわからないと言う。いったいどんな音なのか? 詩人が訳したものは違う。たとえば、「Plop!(ぼちゃん)」とやったりする。
湯浅信之の訳だと「A deep resonance.」。これはちょっと説明的すぎるだろう。performしているというより、explainしている。

pond
  frog
    plop!

これは、目で見る翻訳となっているが面白い。ただ、「古池や」が持つ静謐さが出ていないのは残念。

このように、翻訳者によって中身も変わってくるのだ、という話であった。

ジョルジュ・ペレックの書籍『La Disparition』、英訳『A VOID』について
ペレックは『人生 使用法』(酒詰治男訳、水声社)など、実験文学集団「ウリポ」の一員で、ウリポには『文体練習』のクノー、一時期はカルヴィーノも参加していた。『La Disparition』、フランス弁で「ラ・ディスパレシオン」の英訳本『A VOID』を見てみると、どこか変な感じがする。the という語が1つも使われていない。「e」という文字を使わずに書かれた小説である。タイトル『La Disparition』を直訳すると『The Disappearance』となるが、「e」が使われているため『A VOID』(void=空虚、さらにavoid=避ける ともひっかけている)。フランス語でも英語でも「e」という文字は一番よく使われるのにもかかわらず、それを排除している(筒井康隆も似たようなことをしてた)。そして、この小説が現在邦訳作業中であるという。おそらく、カ行を抜くとかそういう風に訳すのではないか。
参考:月刊 水声通信(suisei tsusin)2006年4月号 特集:ジョルジュ・ペレック
http://www.amazon.co.jp/dp/4891765836/

ミルハウザー曰く、「翻訳者はわたしの代わりに働いてくれる小人である」。「たしかに、ミルハウザーからみれば、ぼくは小人であるのですが」(笑)
※柴田さんは、身長162、3センチぐらい?(体重56キロ?) ちなみに、当日のいでたちは、黒のスリムジーンズ、緑のワイシャツ、ネクタイ(色忘れた)、黒ジャケット。
「原文が優れていると、そのまま奴隷のように訳せばよい。そういう意味では、自分は翻訳者というよりも奴隷だなと思うことがあります」(大意)

●英訳では訳注は避けられる ⇒つまり、力関係があるのでは。和訳のときなどは、原文のほうが偉いから「これは、本当はこういう意味なのである」と注釈を入れるのは、向こうが偉いと思っているから。

アングロサクソン系の単語は、土着的に大和言葉で訳し、ラテン語系の単語は、漢字熟語などを使って堅く訳すとよい。oftenを「しばしば」とするより、「〜がよくある」としたりするのもそう。

●“You bastard, don’t you understand what it means human?” これは、物語の最後に、移民の主人公が悪魔に言う言葉。微妙に文法的に変なところが切実な感じを表しているので、それを訳出したい。
(本当は、“You bastard, don’t you understand what it means to be human?” となる)
「人間ってことの意味がわかっているのか?」と少しくずした言い方にした。

●中世を舞台とした古めかしい小説の翻訳をいまやっている。絶版の角川の「外来語辞典」を見たりしながら古さを感じさせる言葉を造語したりしている。たとえば、「煙草毒素」にルビを振って「ニコチン」。どうでしょうか?

●よく使う辞書について:リーダーズ英和辞典と同プラスははずせない。ランダムハウス英語辞典も使う。電子辞書でも先頭に表示されるようにしている。大辞林新明解国語辞典、角川新類語辞典、大修館の大シソーラス、OED、形容詞のニュアンスを知りたいときはロングマン英英辞典、読み方を知りたいときはロングマンの発音辞典もよい。平凡社の世界大百科事典、英語のWikipediaも使う(日本版のWikipediaはないよりはいい)。
なぜリーダーズと同プラスがよいのかと言えば、これは訳語集としてみていて、どういう言葉を使うか、選ぶかの参考になる。その他の辞書は「イメージを喚起する力がない」。

●ロジャー・パルパースのリメリック(五行詩、滑稽五行詩)を例に挙げ、リメリックなどでは内容の忠実さよりも、そのおかしみ、「読んだときの快感を、そのまま等価に翻訳すればよい」という。
さらに言えば、原作者に翻訳で気をつけなければならないことは何かというと、口を揃えていうのは「Get the voice right.」つまり、ヴォイス、書き方というか、トーンを正しく伝えることだという。そのためには、理屈で考えるのではなく、(原著者の)声を聞くという姿勢を持つことが大事。そして「考えず」にすますためには、語学力がないといけない。
というわけで、翻訳力をつけるには語学力をつけることが大切だという結論(でいいのだろうか)。

●柴田さんが翻訳するのが苦手な作家は、ドン・デリーノ。彼の作品にはデリーノ自身のヴォイスがない(あるいは少ない)。さらに、たくさんの人物が出てくるので大変そうだ、とのこと。