芝山幹郎=インテリやくざ

『翻訳通信』第28号(2004年9月号)が公開された。今回、山岡洋一氏の「翻訳批評」では、芝山幹郎訳の『カクテル』(ヘイウッド・グールド著)が取り上げられている。そういえば芝山幹郎訳の本はあまり読んでない気がするが、名前はよく見かけるような。そうか、PM関連本の参考文献にウォーレン・ベニス著『リーダーになる』(芝山幹郎訳、ISBN:4102375015)があったからだな。
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/bn/200409.pdf

翻訳物の小説を次々に読んでいて、外れがいくつも続いたとき、無性に読みたくなったのが、芝山幹郎訳の『カクテル』だ。芝山幹郎が翻訳の世界に事実上はじめて登場したのがこの作品だ。殴り込みをかけたというべきかもしれない。それほど強烈な作品なのだ。原著も強烈だが、翻訳も強烈だ。
知り合いの編集者によれば、芝山幹郎はインテリやくざなのだそうだ。まさに至言だと、『カクテル』を読みなおすと痛感する。インテリだから、しっかりと原文を読み込んで破綻なく翻訳する。やくざだから、権威を歯牙にもかけない。訳者あとがきで芝山はこの作品を「二十世紀末をいろどる高級娯楽小説」としている。文学ではなく娯楽なのだ。そして翻訳も、それに相応しい。日本語の高級娯楽小説として目一杯楽しめる高級娯楽翻訳だ。
じつはもうひとつ、インテリやくざとは言いえて妙ではないかと思わせる点がある。酔っぱらっている場面、らりっている場面、悪態をつく場面、殴り合いの場面、セックスの場面になると、筆が一段と冴える。言い換えれば、文庫本で600ページの『カクテル』全編で、芝山の筆は冴えわたる。『カクテル』はそういう小説なのだ。
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たとえば、and bingoという何でもない言葉が「するとどうだ」と訳されている。また、the cocktails are colder, they reach your brain quickerという何ということもない文章が、「カクテルは夕方よりもきりりと冷え、さっきより足早で脳髄にとどく」と訳されている。翻訳はこうでなければいけない、それよりも日本語はこうでなければいけないと思える訳文ではないだろうか。
残念なことだが、『カクテル』は絶版になっていて、古書店でしか買えない。ヘイウッド・グールドが小説を書かなくなり、『カクテル』の言葉を借りれば、「ハリウッドに自分を売りわたしてしまった」(69ページ)からかもしれないが、アメリカでも原著が絶版になっている。