斎藤美奈子

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 私は基本的に文芸評論は読まないのですが、斎藤さんの著書だけは楽しみに拝読しております。理由は面白く、わかりやすいから(笑)。そんな斎藤さんが評論を書くにあたって、留意していることは何でしょうか? あまりに他の批評家の方々と違いすぎるので気になります。(東京都・「向井邦明」さん)
A ありがとうございます。でもそれ、褒め言葉なのかな(笑)。「向井邦明」さんが「他の批評家の方々と違いすぎる」と思われるとしたら、私が文学の門外漢だからでしょう。一時期流行った構造主義批評の本(『物語の構造分析』とか『物語のディスクール』とか『小説の記号学』とかのたぐいです)はずいぶん読んだし、蓮実重彦柄谷行人もおもしろかったけど、文芸評論が全部おもしろいかというと、そんなことはなくて……。なんだ、これならワシのほうが上手くやれる、と(笑)。何も知らないから、こんな恐ろしいことが言えるんですね。
そもそもそこから始まっているので、本流からは外れててもいい、むしろ「面白くわかりやすく」といつも考えています。私は児童書、それも児童文学ではなく、人体のしくみや生き物の分類など、理科系の本の編集やってきたんですね。そういう本は何を言うかは決まっているので、「どう言うか」だけが問題。血液循環のしくみを教えつつ笑わせるんですよ。高度なワザが要求されると思いませんか(笑)。その頃の癖が抜けていないので、文学研究者とその周辺だけで通じるような言葉づかいはしたくない。できれば中学生ぐらいが読んでもわかるようにしたいし、笑いも取りたい。気分はほとんどお笑い芸人です(笑)。

▼共感してしまう (^^;

 書店の棚の分かれ方とはひと味違った分類をされる斎藤さんに質問です。小説における純文学とエンタテインメントの違いってどんなことなのでしょう? そもそも、斎藤さんは両者を区別していらっしゃいますか? ぜひ教えてください。(山口県・「あさき」さん)
A それは前回のこのコーナーで、奥泉光さんが答えていらっしゃる「物語」と「小説」の違いで言い尽くされていると思いますが、私もざっとした違いはあると思います。読者の側からの視点でいうと、エンタテインメントは遊園地というか、出来上がったテーマパークだと思うんです。すでに物語が出来上がっていて、そこに乗っかっていればジェットコースターみたいに最後まで連れていってくれる。それに対して純文学は、森や野原みたいなもの。「読めない」「何が面白いのかわからない」という人がいるのは、自分なりの遊び方や楽しみ方を発見しきれていないからだと思いますね。いつもは使わない頭の筋肉を使って、自分なりの地図を作っていく。そんな感じで読むといいんじゃないでしょうか。
個人的には、「どうだ読めるか!」という感じで書かれた一見難解な作品が好きです。「よーし読んでやろうじゃん」みたいな。笙野頼子さんとか、松浦理英子さん、多和田葉子さんなんかはちょっとその系統ですよね。逆に、簡単に終わりまで行っちゃうエンタテインメント作品は、読んでいる間は面白いけど、それだけかなあと。ただ、今の文学作品は芥川賞直木賞のように制度的に2分されているところがあるから、その枠組みに捕らわれるつもりはありません。むしろ両者を区別しないで論じたほうが、新しい発見があるように思います。

「純文学は、森や野原みたいなもの」。似たようなことを長谷部奈美江も書いていた。
以下、『もしくは、リンドバーグの畑』中の「お城へのたび」より。

誌とは何かときかれてもこまる。だって詩は詩で、
詩が散文の中へかえっていくことはないから。ど
んな街にも立入禁止の場所はあって、そこを越え
るとジャンルの否定につながるようなポイントが
ある。でも、詩人はね、にこにこ笑って無人の野
に行き倒れる人なんだ。そして、それがうれしく
ってしょうがない。どこかにお城があるとするで
しょ、他のジャンルの人はそれぞれ街の武器をも
ってアドベンチャーするから、お城へのたびは気
の毒なほど遠い。だけど、詩人にはなんにもない
から、あるいは、そのお城にほんの二、三歩でた
どりつけるかもしれない。 (中略)     
          みしらぬことばでみたこと
のある場所を歩いてもつまらない。だれもがしっ
ていることばでだれもしらないところを歩きたい。
だから、無人の野に倒れたいな。