二十一世紀をどう歌うか

http://www.ne.jp/asahi/mizugamehp/mizugame/mg/theme/21-7.htm

●標準化人間へ(榛名 貢)
「水甕」2001年7月号(特集「二十一世紀をどう歌うか」)より

 与謝野晶子の『みだれ髪』は一九〇一年、明治三十四年である。前年にはニーチェが死んでいる。フロイト『夢判断』が出ている。二十世紀歌壇の概観は高嶋氏の一月号の記述が大切であるが、この間に表現する主体と言語に対する考え方が根本から変化している。
 無意識の発見によって、意識もしくは主体性に準拠する近代哲学の総体を問題化することになる精神分析と並んで、フッセルの現象学の運動が生まれた。「吾惟うゆえに吾在り」コギト・エルゴ・スムという明晰判明な認識の直接的確実性は揺らぐ。コギトは「あるものについての意識」すなわち「志向的体験」であり、コギト コギタートウムはまさに意識の「志向性」を表す。自我が志向する対象がコギタートウムである。主観性をあるものについての意識として、世界が現象する場として捉える点で、そもそも主観性の「内部」というものを不可能にする思考となっている。フロイトの流をくむJ・ラカンは「わたしはわたしが存在しないところで考える、ゆえにわたしは、わたしが考えていないところに存在する」ということになる。無意識も他人の言葉でできているのである。
 スイスの言語学ソシュールは意味を区別する単位である音素とそれが形成する体系、すなわち差異の体系を言語学の中心においた。意味を生み出すのは何らかの実体ではなく、差異のみである。音素は話し手の心理状態を反映するのではなく、聴き手の聴取能力に働きかけて、無意識のうちに弁別される。また言語を各国語であるラング(文法、音韻法則の総体としての言語)と、話し言葉であるパロール(現実に語られ、単線的に配置された言葉)とに区別。パロールの変動によって影響されない価値の均衡状態であるラングを記述することに力点をおいた。死後出版された『一般言語学講義』により構造主義の先駆として、以来大きな影響を及ぼし、記号の意味作用は体系内の差異に由来する、という立場を徹底した。