渡邊先生の発表は、当方フランス語の文法を知らないため、どれほど興味深い現象なのかわからなかった。残念。
工藤先生のマシンガンのようなしゃべりに圧倒された。休み時間中に小耳にはさんだ「九州は(言語研究の)宝の山ですよ」という言葉が印象に残った。
国広先生と工藤先生の師弟コンビで「完成相」論争が勃発。これは懇親会まで持ち越されたのか非常に気になる。ちなみに、国広先生が会場の席に持ち込んでおられた書籍は以下の4冊。『朝倉日本語講座6 文法II』、『副詞的表現をめぐって』『「を」「に」の謎を解く』『日本語文法入門ハンドブック』。
朝倉日本語講座 6
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副詞的表現をめぐって
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「を」「に」の謎を解く
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日本語文法入門ハンドブック
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★フランス語談話会★ ■日時 2007年7月14日(土)15:00-18:00 ■場所 東京大学駒場キャンパス10号館1階L103室 ■発表者 ・渡邊淳也(筑波大学) 「フランス語の間一髪の半過去 (imparfait d'imminence contrecarr?e) をめぐって」 ・工藤眞由美(大阪大学) 「日本語アスペクトの生成メカニズムとエヴィデンシャリティー?脱標準語中心主義のために?」 ・国広哲弥(東京大学名誉教授) 「アスペクト認知・視点・現象素」 ■司会者 阿部 宏(東北大学) ■談話会世話人 中尾和美 長沼圭一
発表内容詳細 >> http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/belf/resume/danwa.resume.html
渡邊淳也 (筑波大学)
「フランス語の間一髪の半過去 (imparfait d'imminence contrecarree) をめぐって」
アスペクトの事例研究として、「間一髪の半過去 imparfait d'imminence contrecarree」を主たる対象とする。たとえば、Une seconde de plus, le train DERAILLAIT.(あと1秒で、電車は"脱線していた")のような例がこれにあたる。先行研究の一部では条件法過去の AURAIT DERAILLE と意味的にひとしいとされることがあったが、実際にはかなりニュアンスのちがいがある。条件法過去ははじめから非現実としてとらえているのに対して、半過去では「ほんとうに脱線の過程を途中まで進んでいた」ともいうべき、「迫真感 dramatisation」の効果がみらる。これはまさに未完了相から生じてくる意味効果であると考えられる。しかしながら、Un peu plus tot, tu la VOYAIS(もしすこし早かったら彼女に "会えていた" のに) のような、実際より早い時期を仮定するものや、Sans vous, je M'ENNUIAIS(あなたがいなければ、わたしは "退屈していた" だろう)というように、非時間的な仮定をする例もある。これらは未完了相からの説明が一見困難な例であるが、発表中では、それにもかかわらず共通の基盤が存在することを示す。最後に、発表者のおひとりの工藤真由美先生が複数の著書で言及しておられる愛媛方言における非実現の「〜よった」(例「あの子、車道に飛び出して死によった」[="死にかねなかった"]) を間一髪の半過去と対照し、異同をあきらかにする。
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工藤眞由美(大阪大学)
「日本語アスペクトの生成メカニズムとエヴィデンシャリティー−脱標準語中心主義のために−」
日本語のアスペクト研究は、標準語中心の記述から、国内外の日本語のバリエーションの総合的考察へと展開している。
1)日本語の様々なアスペクト体系の生成メカニズムは、3つの「人の存在動詞」のうちのどれを採用するか、そして第2中止形のみに接続するか、第1中止形と第2中止形の両方に接続するか、が基本原理である。
2)「ものの存在動詞」のアスペクト形式化の有無や有り様は、「人の存在動詞」によるアスペクト形式の有り様に支配されている。
3)アスペクトからテンスへの発展経路のみならず、アスペクトからエヴィデンシャリティーやさらには意外性というミラティヴィティーへの発展経路もある。
トランスナショナルな時代を迎え、今後、他の言語との比較対照的研究や言語接触論的観点からの研究がますます盛んになるであろう。このような研究を豊かなものにするためには、複数の日本語という脱中心的視点からの日本語研究が極めて重要であると思われる。
標準語のアスペクト体系は、日本語が有する豊穣な諸アスペクト体系の1つの現象形態に過ぎない、という相対的視点こそが、21世紀の言語研究において重要になるだろう。
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国広哲弥(東京大学名誉教授)
「アスペクト認知・視点・現象素」
「てい(る)」が〈完了〉と〈進行〉を表したり、英語動詞の ‘stand’ が〈状態〉と〈動作〉を表すように、同一の語形がアスペクト的多義を表すことは多い。それは単なる語義的な問題なのではなくて、裏にひそむ言語以前の認知的な多義の反映であるというのが主なテーマである。言語以前の事物を「現象素」と呼び、ここには現象素をどんな角度・範囲で見るかという視点も含まれる。アスペクト的多義は動詞ばかりではなく、副詞・名詞・助詞にも見られる通範疇的な現象である。
「る(=未完了)」と「た(=完了)」も基本的にはアスペクトの違いを指すと見る。「た」の特殊用法として「発見のタ」、「思い出しのタ」があるが、これを機能語の遊離現象と見る試案を示す。遊離現象は表面的には一種の非論理的表現であるが、他の非論理的表現と合わせて、言語表現の意味解釈においては、言語を離れた認知意味層というものを認める必要があるということに説き及ぶ。